昭和56年2月8日       朝の御理解


御理解第95節「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ」



 金光様のご信心は、確かに銭金では拝まぬと仰せられる教祖様の、まぁ生き方というものがそのままお教会にも、それぞれの教会に伝わっております。宅祭りはいくら。御霊のお祭りはいくら。と言う風にその金で決めるというようなことではない。まぁそれこそ一心とか真心を持って、取り次がせてもらい、又は取り次ぎを願う者もそういう心を使わずに、ただ自分の持っておる真心を持って仕えてもらうと。
 ね、氏子に芯があれば、氏子に真心があれば、庭の散り葉でも良いと仰せられる。ところを見ると、なら全然お供えせんで良いということじゃないようですね。ない時には庭の散り葉でも、とこう仰る。ね、私共もいよいよ、金に逼迫する。もう借りるところもなくなったと。と言う時には、そうでした。
 福岡におります時分、あちらこちらお話に参りますから、ある方がお話に来て頂く時には電車を利用して下さい。と言うて、あの、あれは何て言う(ちてん?)じゃない、何ち言うかなあれは、回数券、回数券を下さったことがあった。けれども電車は、もうどこまで行くでも、(ふくはく?)の町を歩いてでしたが、もうお賽銭がないお初穂がないと言う時には、それを一枚づつちぎってそれが、お賽銭でした。
 もういよいよない時には、あの時分は証紙というのがあります。これはお金にも何にもなりません。切符くらいなら何か役に立ちましょうけれど、それでもやっぱり、証紙を、布を買う時に証紙というというのがいったんですよね。切手みたいの。で、それがお賽銭。
 もう、いよいよ本当にもう、真に相済みませんけれども、それこそ庭の散り葉でもと仰せられるのだから、それこそ証紙一枚、用紙頂いて、相済まんことですがと言うて、お賽銭箱に入れさせて頂いたら。★例えば千円万円、お賽銭が出来るようになっても、その心を忘れるなと頂いたことがある。
 お賽銭箱に千円万円のお供えが出来るようになっても、本当に相済みません、この証紙で、どうぞお賽銭(がわり?)で取って下さいと、言うてそういう、そういう心を忘れるな。お供えにはだから、慎みとね、御礼、感謝の心と慎みが、いくらどんなに沢山お供え出来るようになっても、慎みと感謝が共のうておらなければだめだと。
 私はこんなに沢山お供えが出来るようになった。というような物がチラッとでもあってはならぬということですよね。と言うて、お供えせんでも良いと言うことじゃないち。庭の散り葉でもとこう仰るのじゃから、ね。
 私共も、借りるところもなくなった。(おぶる?)品物もなくなった。もう一番最後に、家内が結婚する時の、式服だけが残っておったから、それをあの善導寺の「岸?」さんというて、毎日あそこ、その当時(ひちようひ?)をなさいました。
 すとそこに持っていったら、まぁ心ようお金を貸して下さった、その時の大祭に使わせて頂こう、(あ、あれやれ?)よかったと思うて帰って来たら、もう直ぐ後から、あちらのお婆ちゃんがついて見えて、あの見えてから、あれにしてはあの、着物をこうやってあつかったけれども、ん、これは主人がいかんて言うからと言うて、持って見えました。
 ん、だからもうお供えする前でしたからね。また直ぐお返ししたことでしたけども、けれどもそれが最後でした。そういうことは。お供えなんかでも、私、月次祭にお神酒のお供えをさせてもらう時に、もう一番最後にあの久保山という、「あさなぎ?」という酒屋で、まぁ借りてお供えをした事がございましたが、ね、あのもう中から良いと言うのではないようですね。真心とか一心とかと言うのは。
 ないならないなりに、それこそ庭の散り葉でもというのが、もうなかこた知っちゃるけんで神様がと。ね、もう恥じるところもなくなった。売るものもなくなった。けれどもそれが最後という、そこから、私は言うならば金銭の不自由をせんで済むようなおかげが段々頂けてくるようになった。
 ね、この神様は前金では拝まんと仰るけども、これは取次者が、そりゃ宅祭りするならいくらお礼がいるばの。御霊のお祭りは、いくらかかるよと言うようなことではなくて、これを願う側の方としては、真心をそこに現さなければいけない。ね、庭の散り葉でも良いから現せる。
 昨日、総代の高橋さんがここでお届けをされて、実はというてその、お届けされますのに、去年の11月に、奥さんがお夢を頂いたんです。そのお夢が、そのお供えが多すぎるという夢を頂いた。がそれからこっちずっと考、とにかく今高橋さんの生き方と言うのは、もう自分の給料の全てがお供えなのです。それで、奥さんが頂かれる給料で、まぁ家庭を、まぁ生活をしておられる。それでやっぱ奥さんが窮屈になる。それも、会社ですから、会社から段々お金をもう借りたけれどもう、その借りた金が百万円になった。もうこれ以上は借りられん。
 まぁそういう所からじゃないでしょうか。昨日実は、こうして去年の11月に、家内がそういうお知らせを頂いておりましたが、私のそのお供えのことについてどう考えたら良いだろうか。という、まぁ言うなら半分にしても良いだろうかというお届けであった。
 それで私は、少し(ふうとく?)に言いました。あんた私が信心を頂いてもう何年になるのっち。こげん時親先生ならどげん、なるほど神様はそういうところがあるんです。
 ね、いつも話ますように、はー大祭にこうやって帰っておるが、ね、最適なお供えをさせて頂いたけれども、今度のご大祭にはお供えがないが、買うお金もないし、お供えするものもないがと、私が思うた途端に、もうこれだけはと思うて持って帰っておった、あのメリケン粉を、当時福岡から、椛目に家内子供がおりましたから、持って行ってやっておった。
 したら神様はその目、足元にあるメリケン粉指して、そこにあるじゃないかち言いたか。こりゃそればってんもう家内子供の、それこそ、が、この前椛目に帰った時に、ね、こちら椛目の(ばかいで、遅配、てっぱい?)の時だから、食べて行くのもやっぱ気の毒か、いくら親子でも。だからあちらで、なら何でも、芋でもメリケン粉でも良いから、(はいくら?)取れたならば、少しでも良いから持って来てと言うて(ぎゃくせつ?)家内が頼んでおった。
 だから、その廃墟のそれこそ真っ黒いメリケン粉でしたけれども、それを持って帰っておる、それを指して、言うならもうこれが命だと言うそのメリケン粉を、★そこにあるじゃないかと神様が仰った。
 そん時には私本当にそうだったと思うたですね。はーここにあったと思うたです。だからならこれを、今度のご大祭のお供えにさせて頂きますというたら神様が次々とですね、お前はこればお供えすると言いよるけれども、子供達が、この(えがつれ?)するぞと。と言うて、あのひよこがバタバタとこうえがつれて倒れて行くところの御心眼を頂いた。
 あー、それもこげんまでしてんなら、お供えはせんでよかろう。もう神様はこうやってお知らせまで下さるからと、私がそうしとったら、もうそこまでのおかげだったでしょうね。だから私そん時にならもう家内子供のことはもう神様に生きても死んでもあなたにお任せします。けれども、知らない間、気付かない間なら仕方がないけれども、気付かせて頂いてここにあるじゃないかと、気付かせて頂いたらそんな訳にはまいりません、年に一度のご大祭ですから、これをお供えするというて強引にお供えさせて頂いた。
 ね、そこにおかげではなくて、私は力を頂いたと思うです。そういう意味のことは、まぁ一回二回のことではございませんでした。ね。私はそれこそ前金では拝まんのだから、お供えが多かろうが、少なかろうがそげなこつはいっちょん問題じゃないから、けれども、長い間、言うならば合楽の信心を頂いて、徹頭徹尾言うならば自分の、昨日言うておられました。
 もう自分の物て言うてそれこそ布一寸、私と家内はもうそれこそ洋服一枚、いらいは、さいきんは作りません。ね、つくりよったら立ち行かん。ね、しかしあのそれで立って行き(さかれ?)よかじゃんのち私が申しました。
 別にあんた(ぼーる元?)取るわけじゃないから、それで良いじゃないのと。でそこで、まぁ高橋さん、腹が決まったと思うんですけれども、その時に頂いたことがね、★あの金子源【きんすげん】と言うことを頂いたです。かねこげん【金子源】これは、あの伊万里の源右衛門っていう峠作歌がおられますね。その事、その方の本名が金子源ち言うんです。源はみなもと。金子と言うのはきんす。
 ね、昔お金のことを金子といってましたね。金子何十両という風に申しましたでしょう。その金の源。もうそれこそ「使うて平の金百両」と言われる。使うても使うても、いわゆるその源のところを頂いとけば限りなく、湧く清水のように湧いて出て来るもんなんだ。それがお徳というもんだ。
 それを頂いてから、本当にそうだなぁと、まぁ私自身今こうやって、なら必要な物が、金だけじゃありません。必要な物が必要な金が。ね、頂けれるようなったのは、そういうところを通り抜かせて頂いたからだと思うです。大した事神様は金銭じゃ拝まん、私にあんたがお供えば半分にしたけんで、あの御祈念も半分しかせんばの、というようなこと絶対ないです。
 ね、けれども、御取次を願う方の側としては庭の散り葉でも、例えばこういうみ教えを頂きますとですね。例えばお供えと、おかげは、その引き替えじゃないとか、付き物じゃないとかというみ教えがあります。それ見ると、はー、金光教ちゃお供えはもうせんでんよかとばいのとか。そんなら、その金光教はその前金でじゃ拝まっしゃるとじゃないけん。まぁあれだけでよかばいのとかと。言う風な、そのそういう見方をこうさせられるような感じのみ教えがいくらもありますよ。
 けれども、それから向こうのことはいわゆる神様の世界のことがです、これは私共の真心で思うて見なきゃいけんです。ね、いらんと言われても、そうせずにはおれないというその心が一心です。ね、又は真です。ね、ただそこにきゃスッキリとしたものがね頂けて、いわゆる神様が、本当にこの氏子はと認めなさった所から生まれて来るのが、金子源じゃないでしょうかね。金子源で、金子の言うなば、源である。お徳の源。それにはやはり私共の言うなら赤心というかね、赤い心を神様に見届けてもらわなければならん。
 そこの事務所に、昨日一昨日でしたか、ここにしばらく修行しました佐藤と言うて、佐藤宿老のひ孫に当たる方が、今下関に養子に来てる、今度結婚したからと言うて、2、3日前、丁度神愛会の日でした。4日の日に、お礼、夫婦で御礼に出て来た。そしてこれは言うなら、曾おじいさんですね。佐藤宿老が、の神訓、いわゆるみ教えとして、この貧乏をせんですむ何か条かが書いてあるとを(がい、ばんどい?)にしてから、これ持って来て下さってある。
 佐藤宿老がこれだけは守れよと、これだけが守れたら、金に不自由するようなことないぞというそのなんか、散らしのようなものを持って来てくれた。だから私が、あの事務所に張っときなさいち、事務所に張っとくから見てください。まぁそれだけの事じゃないけれども、今日私今申しますような、言うなら、その源を頂く。
 (てんろくえいしょう?)である。これはその源を頂いた者の上に表れてくるおかげが(てんろくえいしょう?)だと思うですね。神様から頂く六である。ね、永久に尽きることのないおかげ、これは金銭だけのことではない。ね、そういう私はおかげを頂いて頂きたい、合楽のご信奉者の皆さんには皆そういうおかげを合楽では頂いて頂きたい。合楽ではそれを、言うならば頂けれるみ教えが、こうして日々頂けておる。
 自分の場合もしね、もう今日は何にもお供えするもんがない時には、ね、それこそ庭の散り葉でもという心が必要なんです。お供えなかなら、お供えせんでんよかぞじゃないです。しかもなら自分が神様に一端こうと、なら決めたこと。これは例えどんなに難儀であってもそれを貫かにゃいかん。本当はお供えというものは決めてはならん、細めちゃならん。
 これは椛目時代に頂いたみ教えです。いくらお供えをするて決めちゃならん。そして細めちゃならん。ね、これがお供えをさせて頂く者の、言うならば構えなんです。ね、そこに力も頂ければ、言うならば金子源というようなお徳も頂くことが出来ると思うですね。どうぞ。

梶原 佳行